松尾神社について

松尾神社について

御祭神について

大山咋命を主祭神とし、その他二十八柱の御祭神が祀られています。
倉稲魂命、須佐之男命、五十猛命、伊邪那岐命、伊邪那美命、櫛稲田姫命、天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、熊野久須毘命、多紀理姫命、多岐都姫命、狭依姫命、菊理姫命、伊邪那岐命、伊邪那美命、猿田彦命、虚津比売命、金山彦命、岩長姫命、大山津見命、木花開耶姫命、神功皇后、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇、物部建彦連公、菅原道真公。

〜大山咋命について〜
大山咋命の『咋』という漢字は、杭と同じ意味を持ち『くい』と発音されます。山頂に杭打ちして支配する強靭な神で、大山祇命の曽孫といわれております。また、農業神としての性格をもっていたことから穀物から生まれる酒の精霊とも容易に結びついていました。 京都に鎮座する松尾大社は醸造の守護神として崇敬を集めており、当神社も同じ名前を戴き、松阪地域の酒造家の崇敬を受けたのでした。

由緒について

松尾神社は三重県松阪市立野町にあり、古来、立野明神または松尾大明神と呼ばれていました。明治4年明治政府が神社を「官社」と「諸社」に分け、官社には官幣社と国弊社、諸社には府県社、郷社、村社、無格社の社格を設けました。この時、立野神社は郷社としての社格を与えられました。
明治40年10月30日大字立野の八雲神社、八柱神社、大字丹生寺の白山神社等12社を合祀、明治41年更に3社を合祀、明治41年4月7日社号を「松尾神社」と改称、その後も5社程合祀が続き、郷社松尾神社として明治41年4月18日執行された合祀祭を経て村内に一社の形ができあがりました。

松尾神社の前身であった立野神社は、延喜式神名帳記載の飯高郡九座の一つで立野郷の産土神として奉祀されてきました。平安時代(九二七年)に制定された延喜式の中にあるこの神名帳には「伊勢の国 飯高郡にある立野神社は飯高郡九座の首にある神社」と記されております。和名類聚書には多千乃という呼称が見え、神鳳抄※1にも外宮立野一町とあります。両書とも1,200年余りを経た古書であり、近在稀に見る古社であったことが見て取れます。延喜式神名帳に記載された式内社神社は、延喜式内社といい、一種の社格となっていました。日本全国では88,000社の神社があるとされていますが、この延喜式神名帳に記載された式内社は全国で2,861社あります。この地は古来、物部氏の一族がその始祖を奉斎し氏神として崇敬していました。

当神社は「歯牙を患う者、これを祈ればたちどころに治癒し、云々」といわれていました。 昔から虫歯にならぬよう、又患った時には治癒を願い参拝されました。神社鎮守の森にはウラジロの植物が生息しています。この幹を整えて箸とし、松尾神社の撤饌授与品として虫歯の予防駆除の御守りとされてきた歴史があります。

※1 神鳳抄:伊勢神宮(内宮および外宮)の領地の諸国一覧表

見どころについて

階段と鳥居

およそ100基の鳥居をくぐり、400段の階段を登った先に本殿があります。
スポーツクラブなどの生徒たちがトレーニングに励んだり、地元の方が運動のために登られたり、また、秋頃には涼やかな風が吹く参道の雰囲気をお楽しみいただけます。

御神木

拝殿の側の御神木「佐留女(さるめ)の木」。
岩戸神楽で有名な「天鈿女命(あめのうずめ)」の別名にちなんで命名されました。
夫婦円満、家内和合、恋愛・縁結び、子授け、安産、子育ての神として親しまれています。

遥拝所

伊勢神宮、熱田神宮、橿原(かしはら)神宮、明治神宮、靖国神社といったさまざまな神社の遥拝所としても定められています。

殺生禁断の制標

この地に北畠家の臣水谷刑部小輔が立野城を構えており、深く本神社を崇敬し、社領を奉献されていました。この地が紀州領となってから、紀州公もこれに倣い、この地を汚すことなかれと享保9年(1722年)、第6世徳川宗貞公がこの地にお成りの際、当社のことを下問になり、奉行丹生五郎左衛門をして社領4石7斗6合を免除し、翌10年殺生禁断の石標を建立されました。参道途中に現存しております。

亀の井

酒造の神として崇拝される大山咋命(おおやまくいのみこと)。当時神社の「亀の井」には、霊気の亀の井戸という霊泉があり、酒造家はこの水を酒の元水として、作り水に混和して用いました。この石造りの井戸枠は酒屋の方々により献造されたものです。
また、この水には長寿の水、母乳がよく出る水としても尊重されています。

社務所

松尾神社社務所は、旧柿野町深野(現飯南町深野)にあった大庄屋野呂家の別邸であった建築物です。大正5年先々代宮司岡村善太郎の婚姻に合わせ、松尾神社社務所として移築されました。以来、社務所として、多少の改造・修復はあったものの、令和3年の松尾神社中遷宮においてその姿を残しつつ祈祷殿として祭事のできる内装工事が行われ現在の姿に至っております。
平成3年の御遷宮において屋根瓦総葺替え工事が行われた際、鬼瓦には天保11年6月(1840年)御瓦師松阪中西又兵衛の文字が刻まれ建築以来180年以上の年を経てなお今日立派に現存することからその材質造作等、見事な建築物といえます。 この由緒ある建造物を文化遺産として皆様のお力添えを頂き、大切に護持して参りたいと思います。

〒515-0054 三重県松阪市立野町786